とりぶう の 宮古島日記

宮古島移住者の生活。いろいろなことがあるけど、基本的に楽しい方向で生きていく方針です。夫しかちくと認知症お義母さんとの3人暮らし。

2016年06月

あほらしい話こそ

みなさんこんにちは。

ここ3週間ほど、ずっと風邪をわずらってるしかちく。

もともと便秘がちなのが、体が不調のときには、さらに便秘に拍車がかかるといい、

せっせと「出る茶」を煮出しては飲んでるのだけど、

なかなか快便の兆しはみえないようで、

快便大魔王のわたしをうらやましがっています。

わたしはというと、食べるたびに出る。

多いときは一日3、4回出る。

少なくても2回出る。

そんな快便ぶりなので、朝からお通じがなかった今日などは、

「すわ、便秘か!?」

と大騒ぎしたのですが。

出た。

ふつうのええやつが。(聞いてないよ)



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ところで。

食べるたびに出る、というといつも頭の隅にぽこっと思い出される話があります。

それは学生のころに聞いたお話。

名前は忘れたけど、とあるエライ先生のお話を聞くことがありました。

その先生いわく、人間食べるたびに出すのが当たり前だ、とのこと。

だから一日三食なら、一日三回のお通じがあってしかるべしなのだ、ということでした。

若いわたしはそのころまだ一日一回レベルだったので、

「そんなぎょうさん出す人、おるんかな?」

くらいに思っていました。

おるよ、

その張本人が自分だよ、

と若いわたしに言ってやりたい。

そして話は進み、なぜかその先生、男子生徒というものはトイレに行った後、手を洗わないということを発見(?)し、

「家に学生を招いて、食事をふるまったあと、観察しました」

と言いました。

先生は、学生が、

「トイレに行きたい」

と言い出したら、奥さんに秘密の合図を送り、

手を洗ったかどうか、ひそかにチェックしてもらったのだとか。

その結果、

「男子学生いうもんは、やはりあんまり手を洗いません」

という事実が確認されたそうな。

わたしは、

なんと、アホな観察をする人がいたものよ!

と驚くとともに。

それをまじめな講演で堂々と話すとは、

なんと、ステキな大人であることよ!

と感動すら覚えました。

大人になってもこんなあほらしいことを真剣に語るひとがいるというのは、すばらしいではないか!と思ったのです。

げんに。

いままでエライ人の話というものをたくさん聞いたように思いますが。

この話以外、まるで覚えていません。

タメになるっぽい話こそ、忘れてしまう。

ということは。

まじめないい話は結局タメにならん、ということで。

一見、タメにならん話に思えるもののほうが、じつはタメになるということなのかもしれん。

とりあえず、あの先生の話は、大人になってもあほなことを考え続けていてもいいと教えてくれ、

なんとなくわたしを救ってくれてる気がするんだなあ。

それでは~


とりぶう

手作りダンベル

みなさんこんにちは。

ある研究によると、シジュウカラという鳥は言葉と言葉をつなぎ合わせて文にするという高度な能力を持っているのだとか。

それはある意味、チンパンジー以上だって。

すごいね。

同じ「とり」として誇らしいよ。

わたしも「とり」のはしくれ。

なにか高度な能力を発揮しよう!

ということで、きのう。

発揮しました。

ダンベルを作りました。

手作りでつくりました。

シジュウカラ、ではなく、シジュウカタで悩むしかちくのために、作りました。

シジュウカタにはダンベル運動がいいと聞いたので、いそいそと作りました。

1リットルのペットボトルに水を入れたダンベル。

かかった時間は1分足らず。

さっそく、シジュウカタにおすすめしたのですが。




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シジュウカタのやつ、まだ使ってない。

それどころか、鼻で笑ってる。

シジュウカタのやつめ。

「これ、置いとくん?」

とか言う。

置いとくし。

くやしいから朝から自分で使ったし。

けっこう使い勝手よかったし。

このブログを読んだシジュウカタが、それならひとつ、と試してみるのを観察しようと思う。

夏休みの自由研究があれば、「シジュウカタの観察」として提出したい。

しかし当分は、自分で使うことになりそうなんだなあ。

そして、そのうち水が捨てられ、

ペットボトルが資源ごみとして出される日も近いと思うんだなあ。(作った意味ない)

それでは~


とりぶう

夏のはじまり

みなさんこんにちは。

夏の盛りを知らせるセミ。

毎年この時期、わが家の庭にある一本の木に、セミが大量にたかる。

たかりすぎる。

朝は、なつかしの騒音おばさんもびっくりするくらいのものすごい大音量で鳴いてます。

なんの祭り?くらいの騒々しさ。

あいつら毎日、ねぶたやで。

そのおかげでテレビも電話も聞こえない。

しかし、不思議と姿はあんまり確認できず、

どこで鳴いてるのかと思っていたのですが。

昼になるとあいつらは鳴くのをやめる。

暑いから休憩しとるよ。

どこからかやってきて、庭の木にたかっとるよ。

正直、引くくらい、ぎょうさんたかっとるよ。

どれくらいかというと。





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木のシルエットが変わるくらい、ぎょうさんたかっとるよ。

ほんとうに気持ちわるいくらい、たくさんいます。

一列、20匹はいる。

それが何列もある。

そして、その横を通ろうものなら、

ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ

と、一気に飛び立ちます。

ときどきぶつかりにくるのがまたやっかい。

横通るだけなのに、

ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ

と怒っとるよ。

おしっこかけながら飛び立つのでほんまに腹立つ。

その数、数十匹。

あまりの多さに、毎年、宅配の兄ちゃんがビビっとるよ。

宅配の兄ちゃんがビビるくらいになったら、

ああ、夏やなあ、

と思うんだなあ。

それでは~


とりぶう

ああ、てふのやうだ

みなさんこんにちは。

夢のように美しい海の上にかかる橋を、すべるように走る車、ホンダオデッセイ、

のCM。

あれを見ていて、

「これ、どこやろうなあ、南半球あたりのやたら美しいとこなんやろうなあ」

と思っていたら。

伊良部大橋だというではありませんか。

すぐそこやんか!

歩いていけるやんか!

たしかに伊良部大橋から見る海はやたら美しいけど、

CMって、ほんとに上手に撮ってるんだなあ、と思いました。

3割り増し。

ということは。

きれいな女優さんは、CMよりも3割引きな美しさだと思っていいんだな、

よしよし。

となんか納得してしまった。

その伊良部大橋が見えるビーチで、週末、ウィンドサーフィン大会がありました。

海の上をすいすい進む帆が、まるで蝶のようでした。



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そういえば。

三好達治の「土」という詩では、

蟻が 
蝶の羽をひいて行く 
ああ 
ヨットのやうだ

と言ってたけど。

まさにそれの逆だな、と思いました。

と、そこで不思議に思ったのが。

逆にはならない比喩もあるということ。

たとえば。

「ヨットの帆ような蝶の羽」と「蝶の羽のようなヨットの帆」が成り立つように。

「綿菓子のような雲」と「雲のような綿菓子」もなんとか成り立つ。

しかし、

「滝のような雨」というけども、「雨のような滝」はなんか違う気がする。

そして、

「天使のような子ども」といっても、「子どものような天使」は意味が違う。

後者はなんか役目がきちんと果たせないダメ天使みたいに思える。

とすると。

A=B、B=Aが成り立つには、それぞれの見た目やイメージがよく似ているということが条件となる。

それが成り立たないのは、Aの特別な部分がBに似ているという特殊な状態のときにかぎられる。

なあ、これって数学?(だれに聞いてるん?)

そうだとしたら、わたしは知らず知らず、趣味で数学をやってたということになり。

よしよし、と思える。

しかし。

『鬼みたいな顔したわたし』と『わたしみたいな顔をした鬼』が成り立つかどうかは、

意見のわかれるところかもしれず。

だれかに聞いてみたくなる、ということはない。

成り立たない、と宣言しておきたいんだなあ。

それでは~


とりぶう

吾輩は自由であり孤独である

みなさんこんにちは。

宮古島に移住して5年という人が、まったく関西弁が抜けてなかったという話をカメ氏としていたら。

「お母さんも10年住むのにまったく抜けてない」

と言われた。

そうだったんか。

家の中の公用語が関西弁だったので気付かなかった。

そんなカメ氏は学校では宮古弁。

「関西弁しゃべって」

といわれることも多いそうで、そのたびに、

「もう忘れた」

と返答しているらしい。

なんかうらやましい。

でもわたしだったら、

「もう忘れたわ~」

とばりばり訛って返事しそうだな。

あぶねー。

という金曜日。

モコの日記です。






吾輩はモコである。

文鳥である。

とりぶうはよく文鳥画像を検索している。

本物の文鳥を見ているだけではあきたらず、二次元の文鳥にも触手を伸ばしだしたと見える。

ばかげている。

検索しては、「かわいーかわいー」と奇声を発する。

およそかわいさとは程遠い人間が「かわいー」と連発するほど気色悪いものがあろうか、とげんなりする。

そうして文鳥ゴコロが高まったのか、

「モコモコ!おいで!モコモコ!」

と吾輩を呼ぶ。

無視するに限る。

呼ばれたところで答えてみても何もメリットはない。

せいぜいつかまれてぎゅうぎゅう鼻を押し付けられるだけなのだ。

今日も文鳥画像を検索していたとりぶうは、なにかを見つけてにやついていた。

「なあなあ、ハワイでは野生の文鳥がいっぱいってよ!

それがなついてるってよ!ああ、ハワイ行きたいな~」

そんな理由でハワイに行きたいとは、ハワイも軽んじられたものである。

ハワイに行かずとも文鳥によく似たスズメの群れなら、庭に山ほど来るではないか。

それを見ておけば良いのにと、吾輩は思う。

しかしとりぶうにしてみたら、わざわざ金を出してまで手に入れるほどの文鳥が、野生でしかも群れでいる、というところに価値があるのだそうだ。

群れのメリットはよくわからぬが、画像を見たらいかにもきゅうくつそうではあった。





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限られたエサを取り合いしながら食べている。

自分の好きなだけ好きなときに食べられる境遇の吾輩からすると、気の毒でしかたがない。

しかし、野生というのはそういうものである。

群れでいるほうがなにかと都合がよいのであろう。

敵に襲われにくいとか、エサが見つかりやすいとか。

メリットを確認できているから群れるのである。

でなければ離脱するのみ。

吾輩は最初から群れのよさを知らぬ。

ひょっとしたら群れは群れで居心地がよいものかもしれぬ。

顔なじみのやつと一緒にエサを食べるのは、なにかしら心浮き立つものがあるのかもしれぬ。

このエサは美味い、こっちはまずいなどの情報が共有できることは、自分ひとりで美味いえさを探し出すことに比べたら、はるかにメリットだといえる。

しかし群れと孤独の両方を同時に手に入れることはできない。

どちらかを選んだとたん、もう一方のメリットを手放すことになる。

そもそも吾輩には選択肢そのものが最初から与えられていない。

しかし人間は与えられている。

自ら進んで選んだ境遇なのであれば、メリットをせいぜい享受しなければならない。

ないものを数えてももう遅いのである。

群れに所属しない吾輩は、自由である。

しかし自由とは孤独である。

自由でいるからには孤独に耐えうる力が必要である。

その力を持ったもののみが、自由を満喫できるのである。






モコのカゴの中には、えさばこが三つあります。

小×2、大×1

いままで小のエサばっかり食べてたのが、さいきん大を食べるようになった。

そのため小のエサの量を減らしています。

気付いてるかどうかはわからないけど、モコの食べるのが、大エサがちになってる。

このままいけばそのうち、大ばかりになる気がするんだなあ。

それでは~


とりぶう
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