みなさんこんにちは。
係累が少なく、たよりない女はモテるんだな、
と、田辺聖子さんの「新源氏物語 霧深き宇治の恋」を読んで思った。
この小説は光源氏死後、その子(血はつながっていない)薫や孫の匂宮(におうのみや)を主人公とした「宇治十帖」の現代語訳的小説である。
やたらめったら女を口説きまくった光源氏とは対照的に、なにかっちゃ、
「もう出家したい」
と思うめんどくさい性格の薫が、もじもじしてるうちに、好きな女がみんな自分の手から離れていった物語。
光源氏に対しては、
「よくまあそんな口から出まかせのことをペラペラと」
とあきれたものだが、
薫に対しては、
「早よせんかい!」
と尻をたたきたくなる。
そんな薫が「浮舟」という女を好きになる。
この人は、薫がめちゃくちゃ好きだったがモノにできないまま死んでしまった女の異父妹。
見つけたとき薫は、
「ウホッ!」
と喜ぶ。
平安時代は一夫多妻制だが、意に添わない結婚も多い。
身分の高い薫は帝の娘を妻にするが、そういう結婚はまわりにとても気をつかうし、
なんせお姫様なので、本人が意識しなくてもたぶん高飛車な物言いだろうし、安らげることなどない。
そこで、口やかましい親戚縁者が少なく、かつ美しく、かつ気の強くない、むしろ頼りないくらい自己主張しない女、自分だけを頼りにしてくれる女が望ましいのだ。
愛玩動物みたいな女、と言えるかもしれない。
そういう要素を浮舟はすべて備えている。
「これはよい女と出会えた」
と薫は喜ぶが。
同じころ、匂宮も浮舟と出会う。
そして、
「これはよい女と出会えた」
と喜ぶのだ。
薫と匂宮は当代きっての美男貴公子。
おまけに身分も申し分ない。
ひと目だけでも見てみたいと思う女が都じゅう、いや日本中にいるといっても過言ではない存在なのだ。
そんな二人に同時に愛されてしまう女、浮舟。
先にモノにしたのは薫だが、匂宮が寝取ってしまう。
二人の間で心が揺れに揺れ、とうとう浮舟は入水自殺。
命はとりとめたが、もう恋愛沙汰はこりごりとばかり尼になってしまうのだ。
自分の意見をはっきり言わず、そのために流されるままあっちに引っ張られたり、こっちに引き戻されたりと漂って翻弄された浮舟が。
しかし、尼になるときだけはもう見事にきっぱり。
海賊王にオレはなる!ばりのきっぱり。
そして二度と薫に会うこともない。
浮舟はようやく心の平安を手にしたのだ。
「幸せ」とはなんだろう?
「モテること」は幸せなのだろうか?
少なくとも、浮舟にとって「モテること」は幸せではなかった。
どんなに素敵な貴公子に愛されたとしても、心から好きだと思える人でなければ迷惑なだけである。
浮舟の時代は自ら男を選べなかった。
ひたすら受け身だった。
そんな時代に生きた女としては、「心の平安」こそが幸せだったのかもしれない。
と。
浮舟の気持ちに添ってみたけれど。
現代に生きる身としては、
「自分の好きな男をはっきりしたらそれだけでよかったのに」
と思ってしまう。
が。
そういうはっきりした女はあの時代ではモテないわけで、結局、浮舟は平安時代の理想的な女だったのだろうなあ。
それでは~
とりぶう