とりぶう の 宮古島日記

宮古島移住者の生活。いろいろなことがあるけど、基本的に楽しい方向で生きていく方針です。夫しかちくと認知症お義母さんとの3人暮らし。

吾輩はモコである

最終回である

みなさんこんにちは。

今朝、空いっぱいにうろこ雲が広がっていたので、

きれいだなあ、と思い。

学校に行くカメ氏に、

「今日はうろこ雲がすごいで」

というと、

「じゃあ明日は雨かなあ」

と返された。

うろこ雲の次の日は雨とか、常識なんやろうか?

と思って調べたら、どうやらそのようす。

しかし天気予報では明日は晴れ。

そのうえ、最高気温29度。

雨かどうかはわからんけれども、晩秋というには暑過ぎる金曜日。

モコ日記です。

最終回です。






吾輩はモコである。

文鳥である。

厳密には、モコであった、というべきであろう。

今週月曜日に死んでしまった。

このカテゴリも今日でおしまいである。

新しいモコがやってきているようだが、まだとりぶうの中でキャラ設定ができていないからか、吾輩が今日までを担当する。

人間たちは吾輩の死を「早すぎる」と思うようであるが、吾輩の中ではそんなことはなかった。

もともとそんなに強いたちではない。

ちかごろはすでに晩年であることを実感していた。

晩年というのは、年を取ったから訪れるものでもなく、若くても訪れる。

生命の終盤である。

とりぶうもしかちくもうさQもカメ氏も、吾輩のなきがらを見て涙を流していたが、すぐに新しいモコになじんでいるようで、節操が無いと笑えてくる。

しかし、それでよいのだ。

吾輩のことをずっと思っていることが吾輩の望むことではない。

人間とのかかわりは、吾輩が生きているあいだだけのものである。

であるから、一生懸命やったというなら、それでよいのである。

吾輩のカゴにいる新しいモコは、四六時中、鳴き続けている。

初代モコの鳴き方とも違う、なにやらゾウの鳴き声のような「パオーン」という響きがあり、おもしろいおもしろいと人間たちは喜んでいる。

吾輩はメスであったので、歌を歌わなかっただけに、にぎやかさの違いが際立つ。

松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだように、

「草の戸も 住み替わる世ぞ 雛の家」

を彷彿とさせる。

旅に出るため、住んでいた家を売った芭蕉は、自分の家が雛祭りをするような家に変わったことに感慨を覚えるのだ。

しかし、旅立つものにとっては、それくらいのほうがいさぎよく旅立てるというもの。

吾輩にとってみたら、自分なきあとはそこがどうなろうとも関係はないが、人間たちが喜んでいるのは悪いことではない。

なぜなら、吾輩もまた人間を愛したからだ。

人間たちはいまだに吾輩のことを話題にするが、しだいに悲しみの色がうすれてゆくようである。

それでよい。

それが生きるということだ。

吾輩の歩みは終わったけれども、生きているものは前に進んで行く。

思い出をためながら、進んで行くのである。

さて、そろそろ時間が来たようだ。

吾輩の出番はこれで終わりである。

人間たちが吾輩を愛したように。

吾輩も人間たちを愛した。

生きるということがまっとうできた。

ありがたいありがたい。




ae1114e9.gif







毎週金曜日の「吾輩はモコである」はこれで終わりです。

来週からは新しいモコの日記を書く予定です。

どんなキャラ設定にしようかなあ。

それでは~


とりぶう

じっとしていたいのである

みなさんこんにちは。

木枯らし1号が吹いた、というニュースが日本をかけめぐるころ。

宮古島ではようやくジーンズの出番になり、

カムチャツカの若者はきりんの夢を見てるらしい。

いや、知らんけど。

北緯24度のこの宮古島でも。

すこしずつ季節は進んでるのですが、暑いときはまだまだ暑く。

今でも扇風機はつけてる。

宮古島で扇風機がしまわれるころ、

メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っているらしい。

いや、知らんけど。

なんじゃそれ。

と、いうことで。

金曜日。

モコ日記です。







吾輩はモコである。

文鳥である。

やたら眠い季節の到来である。

気がついたら目が閉じている。

これには理由がある。

吾輩の換羽期なのだ。

換羽期になると、とたんに体力が落ちるのでとりあえず寝ておくのが得策なのだ。

しかしながら、ガサツ女とりぶうは、吾輩をちょくちょくのぞきに来てはなにかとしゃべりかける。

今日も、吾輩がくちばしを羽にうずめて寝ていると、

「マーブル玉!モコ、マーブル玉!」

と大騒ぎなのである。



e40ef261.gif





しょうがなく目を開けると、しごく残念そうな顔をするではないか。

残念に思うのであれば、そっとしておいてくれればいいのである。

吾輩は人間とは違って、自分の体は自分でよく知っている。

注意深く体の声を聞いているので、体が睡眠を必要としているときにはひたすら寝るようにしている。

しかし、とりぶうの妨害により、それもままならない。

まったくやっかいである。

人間はその点もろいものだ。

とりぶうなどは、少しでも体調が悪くなると大騒ぎ。

見ていてこっけいである。

先日も、マラソンの練習で足を痛めた。

痛めたのはわかる。

治るまで使わなければ良い。

じっとしていればそのうちよくなる。

それなのに大騒ぎしている。

じゃっかんうれしそうに「足痛めた、足痛めた」という。

そして必要以上に大事をとる。

メンドクサイ話である。

しかちくには、

「とりぶうは大げさやねん。ちょっとの痛みに弱すぎる」

と指摘されるのだが、とりぶうはそれもどこ吹く風。

「ほんとは~、見た目以上~、打たれ弱い~あたしがいる~」

と歌っている。

ご機嫌であるのがすこぶるうっとおしい。

ふだん元気を売りにしてるものほど、ちょっとの痛みや不調に弱い。

まわりを巻き込んで自分の弱さをアピールする。

ほんとに弱ると、大騒ぎできないものである。

吾輩の最近の静かさを見ているなら、当分、そっとしておいて欲しいと思うのである。





モコのカゴの中にダンボールで巣のようなものを作っていれてあげたのだけど、

入る気配はない。

来週、入ったよ~報告ができたらいいなあ。


それでは~


とりぶう

夕焼けを見ないのである

みなさんこんにちは。

ようやく熱帯夜とおさらばして最近、寝やすい。

寝やすい、と、起きにくい、というアイロニーはあるものの。

ひさしぶりに布団をかぶって寝るのもよいものだと思う。

しかし、冷えて足がつる。

が、夏は夏で水分不足かなにかで足がつる。

夏にもつり、秋にもつり、冬にもきっとつる。

わたしは年中つりびとである。

ようわからんことを言ってる金曜日。

モコ日記です。








吾輩はモコである。

文鳥である。

このところ、暗くなるのが早くなった。

いきなりぐんと暗くなる。

緞帳が落ちるかのごとくである。

とりぶうはそれを見ていると、

「最近、夕焼けを見ない」

と思うらしい。

秋といえば夕焼け、夕焼け小焼けといえば秋。

すこーんと乾燥した空気の中の夕焼け。

それはそれは美しいんだけどなあ、と思うらしい。

なのに、宮古島には夕焼けがない、秋がない、と思うのだとか。

とくに秋を必要としない吾輩からすると、それの何が問題なのかと不思議に思うのだが、一年中なにかしら季節を感じていたい小市民のとりぶうにしてみたら、それがすこしさみしいらしい。






b0e8f167.gif





今日はせっせと「なぜ夕焼けができるのか」ということを調べていた。

まるで小学生の自由研究である。

とりぶうの悪い癖として、小学生のときにはたいして興味のなかったことを、大人になって調べることである。

そして調べた結果をとくとくと家族に語る。

家族の興味のあるなしはおかまいなし。

家族が「今その話?」という顔をあからさまに見せようとも、知識を押し付けにくるうっとおしさ。

真夏のマフラーのごとしである。

語ったうえに、さらにブログで書く。

ささっと短時間で調べたことを、苦労して調べたような顔をして、そのうえ、自分なりの解釈を加えて書く。

悪い癖である。

さらに、本当のところ、吾輩の口を借りてはいるものの、自分自身のことである。

自分で自分のことをこれだけ揶揄しながらも、決して語ることをやめない。

ハートが強いのか、頭が悪いのか、正直判断しかねる。

たぶんその両方である。

とりぶうが宮古島で夕焼けをあまりみないことを自分なりに解釈した結果はこうである。

よく、夕焼けがきれいに見えた次の日は天気がよい、という。

それは科学的にも根拠があることらしい。

逆に考えると、天気が悪い日の前日は、夕焼けができないということなのではないか。

とすると、夏はどピーカンで朝から極上の天気が続く宮古島も、秋は違う。

秋の朝は毎日雲がおおいかぶさってうっとおしい。

昼には天気が回復することもあるが、朝は基本的に曇り。

そのため前日、夕焼けが見えないのではないか。

したり顔である。

きっと、それをまたあとで興味を示さない家族に語るのである。

しかし、と吾輩は思う。

夕焼けが見える時間帯、とりぶうは仕事中である。

夕焼けを長らく見ない理由は、外に出ていないから、なのではないか。

ひょっとしたら宮古島でも夕焼けは見られるのかもしれない。

それを楽しめるころになったら、人生も夕焼けのころなのである。






モコのかごにカバーをかける季節になりました。

これも秋の風物詩のひとつなんだなあ。

それでは~


とりぶう

変化してみるのである

みなさんこんにちは。

きのう、蚊を尊敬するような記事を書いたためか、

今日は一箇所もさされなかった。

犬は犬嫌いの人がにおいでわかるというけれども。

蚊も、そういうのがわかるかもしれず。

ほめてくれたことがちょっとうれしかったのかもしれん。

よしよし。

金曜日。

モコ日記です。






吾輩はモコである。

文鳥である。

朝、吾輩が止まり木にいないのを見ると、とりぶうは目をひんむいて、

「モコ!どうしたん、なにがあったん!?」

と騒ぐ。

吾輩としては、まだまどろみの最中。

大きな声でがなりたてないで欲しいと思うのであるが、デリカシーのない女というのは、四六時中デリカシーがないので、こんなものなのである。

だいたい、暗闇では吾輩の目が見えぬ。

いきなり明るくされて、大きな声を出されて、毎日迷惑しているのである。

とりぶうの食いつきどころが何なのかというと、吾輩が止まり木で寝ていないということである。

定位置にいないというだけで大騒ぎする。

ふだんおとなしくひたすらじっとしていることが多い吾輩が、いつものところにいないというのは、年中行事を愛し、箱庭の住人を自負するとりぶうにとってはオオゴトなのであるらしい。

吾輩とて文鳥である。

好奇心が多いといわれる鳥、文鳥である。

ときには変化を楽しむのである。







d74ca20e.gif





箱庭の住人にはこの感覚がわからないらしい。

とりぶうは典型的な農耕民族の血が入っているのか、同じ時期に同じことをする。

ささいなことでもそうである。

毎日のそうじの手順もそうであるし、季節ごとの行事にしてもそうである。

意図せず行っているらしく、毎年しかちくにそれを指摘されては、

「そうだったっけな~」

と愚鈍な返答をしている。

反対にしかちくは狩猟民族というか、放浪の民というか、同じことの繰り返しが大嫌い。

変化上等、いつも目新しいことを探している。

とりぶうはそんなしかちくを見ていて、何かしら思うことがあったのか、このところ、自分の中でふたつ変えたことがあるという。

ひとつは階段を降りるときの足。

階段を掃き掃除中は、一段ずつ降りるので、いつも右足で降りる。

しかし、右足首を少しいためてしまった。

そのため、左足で降りることにした。

それだけである。

それだけなのに、自分の中では変化を楽しんでいるという。

はなはだ小市民くさい考えである。

そしてもうひとつは、もし宝くじ7億円が当たったらどうするか、ということである。

今まではかたくなに、

「あたしはあたしの人生が好きやから変えたくない。

地道に積み重ねてきたこの人生が、金によってよくないものになるに違いない。

そんなのはイヤだ。だから7億円はいらん」

と当たってもいないのに、7億円の受け取りを拒否していた。

それが、

「あたし、7億円当たったら人生変えてもええわ」

と言い出した。

しかちくは、

「なんで上から目線なん?」

と当惑している。

「7億円あったら、人生変えたってもええわ」

「だから、なんで上から目線なん?」

アホな会話の末に、とりぶうは、

「人生は1回きりやから、7億円あったら外に出る。

いろんなとこに行く」

と宣言している。

しかちくは当然というふうにうなずきながら、

「そうやろ?みんな人生かえるために宝くじ買うんやから。

今の世の中、手詰まりの人生ばっかりやねんから」

と言う。

とりぶうはやたら晴れがましい顔で、

「7億円当たったら、人生変えてもええな」

と言うが。

「でも」

と付け加える。

「宝くじは買えへんことに決めてる」

のだとか。

アホである。

聞いて損した話であることは間違いない。

しかし、望む望まぬにかかわらず、老化という変化がやってきてるのだけは確かである。

そしてそれは受動態である。

そうであれば、自らが能動的に行う変化というのはできるときにやっておいたほうがよい。

小さなことであっても、チャレンジできる自分は自信になるのである。





モコは水浴びした後、体が重いのか、飛ぶのが下手になります。

この間は壁にぶつかってた。

野生じゃなくてよかったなあ。

それでは~


とりぶう

ひよこのままではいられないのである

みなさんこんにちは。

「コーディガンって、カーディガンとコートをあわせた服っていうことなんやで」

と今朝うさQが教えてくれたのですが。

わたしはてっきり「コーディネイトしやすいカーディガン」か、「コーデュロイのカーディガン」のことだと思ってた。

ファッション用語というのはすぐに変わります。

「コーデュロイ」も昔は「コールてん」と言ってたのに。

そのうち、シミーズもケーパンも知らない人が増えるのだろうなあ。

え?

ケーパン知らん?

毛糸のパンツのことやで?

覚えておいて損はないよ。

得もないけど。(なんじゃそれ)

ということで、金曜日。

モコの日記です。





吾輩はモコである。

文鳥である。

人間たちは羽毛もなくつるりとした皮膚をしているわりには、暑さに弱いようである。

あと10日で10月も終わるというのにクーラーを入れているくらいだ。

おかげで吾輩は大変なのだ。

少しでも体温が下がると死んでしまうデリケートな吾輩は、食べ続けるか暖かい場所に逃げ込むかをせまられる。

ダイエットと称して食べることを控えるなどということは吾輩にはありえぬ。

死ぬ。

そのため、人間には暑く、吾輩のごとくデリケートな小鳥には寒いこの時期は苦痛なのである。

そんなとき、とりぶうが吾輩を手に乗せに来ると渡りに船。

ちょっとだけ逃げるそぶりをして手にくるまってやることにしている。

しかし、とりぶうのやつは自分に都合が悪くなると、吾輩に出てゆけとばかりに手を開く。

そうは行かぬ。

そう簡単に出て行ってたまるものか。




fa6752a6.gif




手のなかでしばしじっとしている。

しかし、徐々に居心地を悪くされ、仕方なく吾輩は飛んでゆかざるをえない状況におちいるのだ。

人間というのは勝手なものである。

そういえば、先日もとりぶうとしかちくは、

「ひよこがかわいい」

という話をしていた。

なんでも犬や猫というのは好き嫌いが別れるところであるが、ひよこだけは嫌いな人はいない、と言うのである。

成長した鶏が苦手という人はいても、あのふわふわのひよこを嫌う人はいないというのだ。

そんなわけあるまい、と吾輩は思う。

吾輩からすれば、ひよこは吾輩と同じ大きさか、むしろそれよりもでかい。

威圧感のかたまりである。

吾輩は美しい流線型であるのにたいし、あいつらはまるで雪だるまではないか。

しかしたしかにひよこのキャラクターというのは多い。

ゆるキャラでもひよこさえ使っておけば、というような風潮すらある。

ひよこが万人にとってかわいいと思えるのは、それが成長するとわかっているからかもしれぬ。

犬も猫も、赤ん坊のときと成長した姿はそんなに違わぬ。

子犬をかわいいと思う人は、それが成長してもかわいいと思うはずなのだ。

しかしひよこは違う。

ひよこはかわいいと思っても、鶏をかわいいと思う人はそんなにいないのではないか。

ひよこのかわいさは一瞬で消える。

1ヶ月もすると、まるでかわいくなくなる。

だからこそひよこは、ひときわふわふわでまんまるで愛らしく造られているのかもしれぬ。

とりぶうは、

「ひよこがあのままでいたらなあ」

などと勝手なことを言うが、きっとあのままではすぐに死ぬ。

見るからに寒さに弱く、頭も弱そうである。

あのままでは生きられないから強く成長するのである。

動物にとってはかわいいことよりも強いことのほうがずいぶん生きるのが楽なのである。

ということは、そこそこかわいい吾輩は、生きるのが大変だと分かってもらえるはずだ。

人間にはわからない苦労も多いのである。





モコは朝見たらときどき、止まり木に止まらないで寝てることがあります。

前の晩にはきちんと止まり木にいたのに。

夜中に何があったのか気になるんだなあ。

それでは~


とりぶう
読者登録
LINE読者登録QRコード
ギャラリー
  • うちにピカソ
  • これもいわゆるピロートーク
  • 春の目安
  • 山姥の変身
  • とりぶう家の食卓12~そうじゃないけど食べてしまうアジフライ
  • 自己満足が自分を幸せにする
  • すもうの話
  • 義母とエプロン
楽天市場
アーカイブ
カテゴリー
楽天市場
  • ライブドアブログ